昭和9年創業、丸福珈琲店80年の歩み
豆に学び、豆と奏でる

丸福珈琲店の歴史

丸福珈琲の「濃い珈琲の極み」を生み出した創業者 伊吹貞雄…。
豆に魅せられ、豆に命を懸けた、
豆一筋の一生でした。

洋食へのあこがれと銀嶺のオーナーシェフ時代

鳥取県の商家に生まれ育った創業者は末弟だったことから父親より自分のやりたいことを見つけ、一生の仕事として全うするように教えられます。

そんな彼が目指したものは、
洋食レストランのオーナーシェフになることでした。

志を抱いて、くいだおれの街 大阪に居を移しますが、いざ自分のレストランを出店する際には、当時、世界的にハイカラな街 銀座や帝国ホテルに憧れ、東京に上京することを決心します。
「丸福珈琲店」を創業する前に、東京武蔵小山にて洋食レストラン「銀嶺」のオーナーシェフとして腕を揮いはじめます。
得意のドミグラスソースを使ったタンシチューなどが評判でした。

洋食レストラン『銀嶺』の前で。

『珈琲』との出会い

ちょうど、その頃、銀座の街で珈琲という飲み物が、流行しはじめます。
彼も、その珈琲に衝撃を受け『自分のレストランでも食後の珈琲をお出ししたい』と考えます。

しかし、当時、入手できる豆や器具では彼の望む味わいや香りを作ることが出来ませんでした。彼は自分の作った料理と食後の珈琲について日本古来の茶道の茶懐石と濃茶のイメージに重ね合わせていました。
また、イタリアンシェフや香港出身のシェフ達との親交もあったことから、
“濃厚でコク深い味わいだが後味のさっぱりした珈琲” を創作することを目指し、独自の研究をはじめます。

日々、珈琲の研究を続ける創業者
◆創業者が開発したドリッパー
この器具自体と職人の手によりひとつひとつ仕上げる為、形は様々ですが、あたたかみを感じます。

海外から入ってきた珈琲の器具や焙煎豆をそのまま使うのでは、その原理やブレンドの背景、裏付け理由が不明な為、味や香りを調整できないと考え、外国人の友人を介して、焙煎機や抽出する器具を製作する技師さんが読むような機械工学的な本まで取り寄せ、英文を自分で和訳しながら珈琲の器具を理解し、自分なりの理論で設計図を引きはじめます。

町工場に持ち込み、試作を繰り返し出来上がったのが、現在、丸福で使用している独自の抽出器具です。
合わせて、 卓上の焙煎機も製作し
(商店街のガラガラ抽選の材具を見て思いついたとか…)
自分なりのブレンドを求めて、研究が始まりました。

ドリッパーをカチカチとたたいて抽出する独特の方法は
丸福の珈琲職人だけが習得した技術です。

温度(火加減)、回転数、焙煎時間などにより、その銘柄の珈琲豆がどのような香りや味わいになるのか、日々、寝る間を惜しんでデータを取り続け、根を詰め過ぎて急性蓋膿症に
かかってしまったという笑い
話もあります。

◆様々な珈琲器具
研究材料としてコレクションされたもの
現在は一部が千日前本部にディスプレイされています。


昭和九年『丸福珈琲店』創業

自分なりに研究し作り上げた器具と焙煎豆を使い銀嶺にて、食後の珈琲をお客様に提供しはじめます。
大阪の料理人仲間も東京に呼び、珈琲を味わってもらったところ仲間から口々に『大阪には、まだまだ珈琲というものが伝わっていないから、せっかく作った珈琲を広めるべきだ』などと言われ、
本人はそれを真剣に受け止め、せっかく軌道に乗っている銀嶺を閉め、大阪に戻ってレストランではなく、当時は大阪で一番にぎやかしく栄えていた街、その名のとおり『新世界』に珈琲専門店を開業します。
それが昭和九年『丸福珈琲店』の創業でした。

◆開業当時の厨房
◆古い厨房保管庫
◆紙ナプキンとストロー
戦前からのデザインを今も使用している

第二次世界大戦をむかえ苦悩の時代

第二次世界大戦をむかえ、日本中が大変な時代になりました。
常連のお客様の多くの方々が「赤紙が来たので、これが最後の珈琲の味やなぁー」と戦場に向かわれました。

創業者は、戦場から戻って来られるお客様が、再び丸福にご来店下さった時に、あたたかい一杯の珈琲でお出迎えすべく、豆と角砂糖を自分の子供達より先に、鳥取の菩提寺に送り、守りました。

そして、ほぼ一日も休むことなく営業を続けました。

今だに角砂糖を使用しているのも、物のないこの時代、自分の好みを我慢して、お子さん達にアメがわりに角砂糖を与えておられた心温まるエピソードを大切にされているお客様がたくさんいるからです。

大倉関園の器に角砂糖が二つ。
長年愛されたスタイル。

戦後すぐミナミ千日前へ本店移転

戦後は、すぐ千日前に本店を移し、
大阪の復興と共に華やかな時代を迎えます。

珈琲もすっかり生活に根付き、たくさんの芸人さんや役者さん、
文化人の方々に愛される店となりました。

◆旧千日前本店
現在とは入口の場所が変わっている。
◆平成2年丸福本社ビル完成。
1-2階が千日前本店となる。

田辺聖子著「薔薇の雨」では、小説の舞台となり、
主人公が丸福珈琲店を訪れるところから、 ストーリーが始まります。
昭和天皇が島根・鳥取方面を訪れられた際には、
たった一杯の珈琲を天皇陛下にお出しする為、 冷水で身を清め白装束で焙煎に挑みました。

◆昭和の新国劇を支えた名優
辰巳柳太郎は、丸福を愛して下さった俳優さんの一人。
木掘りの看板を手作りして下さったり、創業者とも親しくしていただいた。
付き人だった緒形拳氏も同様に晩年までご来店いただいた。
◆田辺聖子著「薔薇の雨」

 

『東京ブギウギ』を大ヒートさせた歌手、笠置シヅ子氏と、松竹新喜劇俳優、曾我廼家五郎氏とは大変親交が深かった。

入口近くの席は6代目笑福亭松鶴氏のおきに入りでした。
亡なられた後も、しばらくは朝、その席が空いていても
『あそこは松鶴さんの席やから』と他のお客様が、すわられなかったというエピソードが残っています。
◆昭和三十年代の店内
◆日本人、初のハリウッド俳優 早川雪州氏
◆年賀マッチ
毎年デザインをかえる年賀マッチ。モダンなデザインが昭和を感じさせます。
◆おてふき
千日前本店のサンドウィッチなどにつけられる”おてふき”戦後のデザインは今もそのまま

新しい取り組みへ

◆レギュラー珈琲の袋詰
レギュラー珈琲のオリジナルブレンドは豆粒の状態ではなく中細挽きにしたもののみを販売。
(現在、うちカフェ倶楽部のシリーズについては豆の状態でも販売中。)

珈琲は昭和初期のような珍しくハイカラな飲み物から、確実に生活に根付いた飲み物のとして浸透しました。
そのため、お客様から御家庭でも楽しめる丸福の珈琲を提供してほしいという声が大変多くあがるようになりました。
創業者は、珈琲抽出の独自性(焙煎豆・抽出器具・使いこなす職人)から豆を販売したりすることや、店舗を増やすことを好まず、出店の依頼や商品化のお話をいただいても門戸を閉じた運営をしておりましたが、自分の孫(現3代目社長)より、 時代は確実に変わって
おり、丸福のこだわりを守りながらお客様のニーズに応えていくことを提案され、それを許します。

◆瓶詰珈琲
レトロ感と手作り感を出すために考案された瓶詰珈琲。この瓶は、大正~昭和初期のソース瓶を復刻させたもの。

平成に入り、お店で出しているのと全く同じ職人抽出による珈琲を衛生的に無添加で《瓶詰珈琲》にして販売することを開始します。 また、すでに挽いた状態ではありますが、《レギュラー珈琲の袋詰》の販売も開始しました。

その後、メニューと全く同じ製法の《珈琲ゼリー》や昔人気のあった《プリン》など商品化をすすめ、自社パティスリーも設立しオリジナルのスイーツの製造もはじめます。
レギュラー珈琲や瓶詰珈琲は、ご皇室よりご依頼を受け納めさせていただくという栄誉も頂戴しました。

商品の製造販売を進めるのとともに、主に百貨店を中心とした新店舗の進出もはじめました。
フランチャイズ形式ではなく自社運営のため1店舗ずつ店舗デザインも間宮吉彦氏をはじめとしたデザイナーの方々にお願いしております。

メニューもお食事に関して、洋食レストランのオーナーシェフだった創業者の回顧的なメニューや顧問のシェフによる創作料理など、またパティスリーが提案する生ケーキやスイーツプレートなど、珈琲が不得手なお客様でも楽しんでいただけるようバリエーションを増やしております。

珈琲ゼリー・プリンはデザインが何度も変遷されています。

豆に魅せられた男

創業者伊吹貞雄は、平成十年七月、九十歳で永眠。
その後も、創業者の遺志は受け継がれ続けます。

何事もこつこつと努力し大変几帳面な人でした。
美術館・食器などインテリアにも興味が深く、千日前本店のインテリア・内装デザインは創業者のイメージをもとにして作られ、アンティークな収集品をレイアウトしています。